群青日記

人生で一番痛々しい時代にどうしてブログを書いているのか

「レストランにて」

レストランにて


「ちょっと、フランス人はそんなことしないよ」
と、彼女にたしなめられた。
「ほんはほほっへ?」
「ああもう、一度飲み込んで」
一層怪訝な顔をした。さすがにもぐもぐしながら喋るのは行儀が悪いかと思ったが、彼女が怒っていたからすぐに返事をしようと思ったのだ。
「なに?」
と聞きながら、つい口の周りをぺろりと舐めてしまう。我ながら子供みたいだ。彼女は、はあ、とため息をついてから、話し始めた。
「あのね、目玉焼きを丸ごと頰張るなんて、おかしいと思わないの?」
「そうかい?」
「ええ。おかしいわ。みっともないでしょ」
「じゃあどうやって食べるって言うんだい?」
「あのね、見てて。こうするの」
と、彼女は自分の皿の上の目玉焼きをナイフとフォークで切り始めた。その手つきは音一つ立てず、まるで生まれながらの中世フランス貴族のよう、このおしゃれなレストランの雰囲気にも馴染んでいて、彼氏としては妙に誇らしい気分になる。服も今日のために用意したのだろうか、本当に綺麗で、自分の知っている彼女じゃないみたいだ。いや、そもそも彼女はいつだって素敵だった、街中を歩いていても、映画館の暗い静寂の中でも、二人きりの夕日の赤の中にいても、彼女はいつもこの世のものではないような、一人だけ神様から遣わされた動く「美」そのもののよう、何と言っていいか、つまりいま僕の胸の中にある浮き足立ったこの気持ちは、いつだって彼女に呼び起こされてきたもので、「ねえ」こうして目が合えば瞳に吸い込まれてしまう、声は反響していつまでも消えない、「ねえ、聞いてる?」「ああ、聞いてるよ」
聞いてなかった。皿の上に目を移すと、目玉焼きの白身の部分だけがまるでお好み焼きのように一口ずつ切り分けられ(高級フレンチに似つかわしくない例えなのは僕の育ちのせいだから許してくれ)、そのうちひとつはさらに半分に折りたたまれてフォークに刺さっていた。
「いい?細かく切り分けてね、こう」
と言いながら彼女はナイフで目玉焼きの黄身に切れ目を入れた。浅い切れ目、半熟の身がそこからとろりと溢れ出しそうだ。これだから目玉焼きは半分に切ったりできない、自然と、一口で丸ごと、少なくとも黄身はバクリと頰張る他ない。と思うのだ。
「こう、つけて食べるの。チーズフォンデュみたいに」
彼女はフォークに持った白身を、いま切れ目を入れたところから黄身に浸して、その口に頬張った。かわいい。どうして好きな人が食事するところを見るのはこうも魅力的で、ともすれば官能的で、背徳感さえ感じる。彼女は気づいていない、ただ得意げで満足げに僕の目を見ている。かわいい。耐えがたい。
「ね?」
と、ぱくぱく食べ進んでいく。確かにこれなら綺麗に食べられる。
「フランス人は、子供の頃からみんなこうするんだって」
「へえ」
たぶんテレビで聞いたんだろう。フランス人に怒られたくないので僕は鵜呑みにはしない。しかしだな、仮にそうだとしても、なんとなく丸ごと頬張ったほうが美味しい気がするのだ。綺麗じゃないけどさ。
「あのさ、フランス人は目玉焼きを頬張って食べる喜びを一生知らないってこと?」
「え?なに?」
つい言ってしまった。
「確かにさ、切り分けたほうが綺麗だけど、こう一口でガッて食べたほうが、なんていうか」
「うん」
「こう、『食べてる』って感じする」
「え?ふふ」
「『うおお、もぐもぐ、俺はいま目玉焼きを食っているぞ!』みたいなさ」
「あはは」
笑ってくれた。楽しい。僕が突然変な話をしても、のんびり聞いてくれる。すごい。なんていい彼女なんだ。僕はもう今日死んでも悔いはない。こんな気持ちになるの、彼女と付き合ってからほとんど毎日な気がするけど。今でたぶん2年に足らないくらいだから、700回は死んでそうだな。何の計算だ。
「でも、そういうのは家だけにしてね。ここには似合わないわ」
また怒られてしまった。かわいいから全然怖くない。

「デザート、何にしようか」
「パフェ食べたいな」
「えー?似合わない。ほんとに?」
「ほんと。昔から好きで」
「普通女の子が好きなものでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「あ、コーヒーゼリーあるんだ。私これにする」
「えー?似合わない」
「え、ほんとに?私ずっと好きなんだけど」
「コーヒーゼリーって普通男が食べるものじゃない?」
「えー。まあ、いいの。ふふ」

デザートが運ばれて、二人の声はだんだん低くなった。星が瞬くような、静かで、遠く、確かに輝いているような声。気づけば外は暗くなり始めて、紺色の闇と街明かりは夜空のごとく、冷たい空気を吸い込んでいる。
わずかな眠気が浮き足立った胸中を包んで、半ば夢の中、ふたりは手をつないで店を後にした。どこへ行くのかは、誰にも知られない。

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壊れた人形

「スパンを遠くに設定するほうがよい」という格言が頭にずっとこびりついている。誰の言葉というわけでもなく、何か根拠があるわけでもなく、自分がなんとなしに考えていて確信しつつあることなので、ある意味誰の保障より自分にとって確かな言葉である。

もう少しわかりやすい言葉で言いたい、でもこういう頭の中の概念って別に書くべきものでもなければ書けるものでもないのだ。読んだところで誤解されやすいし、役立てるかもわからない。

(後から見返してあまりに支離滅裂なので何か書き足すことにした。自分の行動の評価軸を「どの時点」に設定するかである。たとえば高校二年生の勉強なら、たとえば明日の課題提出か、来週の試験か、来年の受験か、十何年後の研究か。どこを目標にするかという話であって、今の例で言えば遠くに設定したほうが良さそうに見えるが、ではそれに際限はないのかという話をしたい。どこかに際限はある気がするのに、しかしない気もするのだ。きっと本当は際限はあるのだ、ない気がするほうが誤りで、自分はそれによって現状に陥っているのではなかろうか。ただの推測だけど。下の数行で似たような話をしているが許してくれ)

だいたいの過りはスパンを短く設定しすぎるせいなのじゃないかと思った。なるべく長く設定したほうがいい。際限はないのか? ものごとの基準において際限がないなんてことはなかなかない。でも際限がないように思われるので、ずっと不思議だったのだ。相反する二つの直感が同時にあって、ふわふわと浮いている。別にどちらかを今すぐ誤りだと決めつけようともしない、このあたりが自分のいいところなのかもしれない。

つまりだな、一体どれだけ遠くを見て生きていればよいか。遠すぎるということはないかどうか。今思いついた、身近なものが十分見える程度に遠くを見ればよいのではないか。何を参考に思いついたか言うと、スプラトゥーンでいつマップを見るかとか敵陣を見渡してみるかという話である。まさか打ち合いの最中にマップは開けない。しかし目の前に脅威がなければ、一息ぶんの時間を費やしてでも、適切な行動を選ぶためにマップを見る価値が十分にある。

さてスプラトゥーンにおける打ち合いは人生において何であろうか。脅威とは何で、それがどれだけ遠ければ全体ぼんやり見渡すことができ、どれだけ時間をかけてよいか。

ただまあ人生は4vs4じゃあないし5分で終わるものでもなし、塗りポイントを競うものでもないので、あれだ。過学習というやつだ、ゲームだけをモデルに考えるのはいけない。

何の話をしていたか。もう少し人を見ようと思った。本とか、動画とか、話してみるとか。映画とか。会って一緒に過ごしてみるのが一番早いけれど、それが怖いのだ。こう見ると自分の人生はかなり根本的なところで破綻していて、小手先の、大学の資金がどうとか小説家になる夢がどうとか運動不足がどうとかいうレベルじゃあないんだと思う。

あと文章について。最近、上手いとか下手とかいうものではない気がしてきた。技術じゃあなく精神なのでは、というような。と言っても技術が存在しないわけじゃない、土台にまず精神があるべきものなのではと。書きながら自分でもよくわかってない。何というか、自分が幼少期に読めもしない本をぼんやり眺め、それが断片的に記憶に残って今も思い出せるように、そういうふうに役に立つのが本当の文章なのではと思った。



早朝5時。自分には夜の続きだけど。

気分が良い。

ボールペン字講座のお手本の薄い文字のように、なぞるだけで綺麗に出来上がるような、そんなお手本になる人を知りたい。自分の成功は思い返すと全部そんなもので、誰かの真似をして、真似だと知らない人に褒めてもらう、そんなものなのだ。オリジナリティだとか独自性というのはどこにあるか。ああいう批判は要は下手な模倣をやめろという意味で、「我々から見てあたかも独自性やオリジナリティがあるようにせよ」という意味で、内面的な言葉じゃない。誠実な創作者が自分の作品の独自性を誇るところを僕は見たことがない、むしろ世間の誤解を解くために、これは誰のどれから模倣し、これはあの人のあれを見て持ってきたもので、と説明するのを見たことが何度もある。

では専門でない者の意見は聞いてはならないのかどうか。それでは受け手から感想がもらえない。つまりこうだ、自分が好きな人、尊敬する人の意見だけを聞いていればいい。では自分にとって好きとは何か、尊敬するというのはどういう感情か。それはもう知らない、神聖な領域であって、自分の心のうちを慎重に聞いてみるしかない。自分はこれがわからない。何が好きで何が嫌いかわからないのだ。こんな精神の奥深くにもメスを入れてしまって、未だに手癖で漁り回っている。

何の話をしていたっけ。話がころころ変わるのは何か精神病のひとつの症状だと読んだ気がする。では自分は病気か。間違いない。



最近ろくに本を読んでいないので文章に妙な癖がついてきた。何か読もう。読むと自分の内側がかき乱される感触がして読みたくないのだ。人に会ってもそんな気分になる。

ゲームをしていてもそうだ、自分はある「正しい理論」を忠実に実行することだけを考えていて、自分の幸福とか苦しみとか、身体的な感覚がすっぽり抜け落ちている。ふいにそれを思い出して遊び始めると同じゲームが急に活き活きとして、自分の心臓の鼓動や空気感まで伝わってくる気がする。こういう感覚はむしろゲームが下手な人ほど強く持っている気がする。

人生においても、もし自分が自分の幸福とか不幸とかをまともに考えて尊重しているなら、今だってなにかバイトなり始めているはずだろうし、誰かと連絡をとって会ったりしている気がする、どうにか大学へ行く手段を考えていそうな気もする。

でも振り返ってみると、そうしないのは別に何か道徳的な理由があるわけじゃなく、ほんとにただ面倒だからとか、なんとなく嫌だからとか、そういう気分からなのは間違いない。

眠い、頭がこんがらがってきた。自分には幸福や不幸といった機能が存在しないわけじゃなく、消滅したわけでも機能を停止したわけでもなく、動いているがいわばバグっているのである。壊れているのだ。

ただ周りを見渡してよくよく考えると、自分が特別壊れているわけでもない、壊れていながらもけっこう動いてまともに生きている人がいるようで、不思議だ。

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一端

コミュニケーションのうち言語が占める割合は7%しかないと聞いた。
では自分の頭の中にうずまいているあれこれのうち、言語で説明できないものが93%あるってことなのか。それはちょっと違う気がする。

でもこれを口実にして、非論理的なものや言葉にならないものを少しは信じられるようになる気がする。

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感覚が死んでいって、ほとんどなにも楽しいと思わなくなっても、苦しみだけは消えてくれない。前より薄まった気はするけれど。

人生の価値をどう測ればいい。「いかに苦しまなかったか?」それなら今すぐスイスにいって安楽死すればいい気もする。でも今の自分の心中に一番近いのはこれだ。

「いかに楽しいことをしたか?」「喜びを苦しみで割った割合で計ればいい」「喜びから苦しみを引いた総量で計ればいい」、どれも微妙に見えて、わからない。そもそも測れないのではなかろうか。ではQOLという言葉は一体何のためにあるのだ。

周りのまともな人、尊敬できる人、好きな人や憧れる人を見るに、そんなことを気にしている様子はあんまりない。でも心中どうなのかわからない、自分は人から見て何を考えていると思われているんだろう。

人間は運命という川に流されるだけだとも言うが(どこで聞いたかは忘れた、自分で考えたかもしれない)、そう見えるのは人間を俯瞰したときだけで、生きている人間は自分の内側から世界を見ているもので、自分の意志が生活から抜け落ちることはないはずなのである。もし他人の意志だけを無視しようと試みるならそう長くは続かないはずで、少なくとも僕はそういう試みを憎む。

確かなのはあくまで自分が何を感じているかだけだ。何にとって確かか? 僕は何を探そうとしている。自分が何を考えているかを探しているのだ。普通わかるものだと思うけど、自分の意志にいろいろ手を入れすぎて、自然な感情というものを忘れてしまった。うそ、わかるはずなのだ。わからないふりをしようとしている。しかし「ふり」と言っても自分で制御できなければ、それに困っている自分には責任はないのではなかろうか。二重人格の人の気持ちってこうなんだろうか。

朝6時、ひどい文章を書いている気がする。何か一生間違いのない名言というか、人生の一大事として常に注意すべきことは何か、と考えていたけど、そういうものが存在すると考える心、これが誤りなのではなかろうか。自分の心は変化するもので、変化するものに対応するには常に更新し続けないといけない、そんなところじゃないか。

僕の心はどこへ行こうとしているのか、俯瞰すれば不幸を避け幸福に向かい、習慣に従い、何か説明できそうな気もするけど、主観に戻ってみれば、何かをしようとするエネルギーは常に制御不能で、やろうと思う前に気づいたら出来上がっている、そんなことがよくある。むしろ、やろうとしないものへ心を無理に引っ張っていったり、進もうとするのを抑えつけている間が、もっとも苦しい。でもこれは物心つく前からの癖であって、遅くとも高校1年のころから自覚してたはずのもので、未だに苦にしていて、いや悪化しているかもしれない、生涯治らないと言われても不思議じゃない。端的に言えば、やりたいことがわからない、できない、という話なのだけど。

では自分の心のうちこの部分だけでも救うことができればとりあえず十分と言えるのではないか。そう思うと小説を書くのが何か現実的なことのように思えてくるし、まだ途方もないもののような気もする。

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死にたい理由と生きる理由

死んだら悲しむ人がいるから自殺はするなとか、
生きてるだけで丸儲け、とか、そんな話を散々聞かされたけど、
自分は全然納得してなくて、
死ぬべきじゃないから生きるとか、死ぬよりは生きてるほうがマシだとか、そうじゃないでしょう?
それは死に損なっているだけだ、死ねないでいるだけだ。
死のうとする意志を何者かに禁じられているだけで、
その理屈が弾け飛べば今すぐにでも死のうという意志がある。

生きるとは何であるか?
生命的に、ホメオスタシスが機能していて云々、という話じゃなく、
精神的に、どうすれば人間的に生きていると言えるかという話である。
毎日寝起きして歩き回っていても、およそ人間とは思われぬ、死んだような者が確かにいて、
自分もそういう者になる日もあれば、まともに自分は生きていると感じられる日もある。
その境目はどこにあるか?

自分にとっては、自分の意志だろうと思う。
誰かの命令だとか義務感より、自分がぼんやりと持っている善悪や良し悪しの判断、
意欲とか痛みとか、そういうものが機能していなければ、生きているとは言えない、と思う。

何が言いたいかというと、死ぬな、と命令されて死にたいのに死ねないでいるよりは、
自分の意志で自殺を選ぶほうが、自分の意志が働いているのだから、人間的であり、生きていると言えると思う。
死にながら生きるより、生きた人間として死ぬのである。

これを聞いてすぐさま、死ぬほうが生きていると言えるなんておかしい、と思う人がいるだろうが、
代弁しよう、たぶん自分の意志で死ぬよりも、自分の意志で生きているほうが、生きていると言えるのである。
だから早々にその意思とやらを回復して生きろ、と言いたいんでしょう?
しかし他人の生死にそう容易に口を出す人間は、ほとんど人間の自由意思というものを認識していない。
自分の意志によって生きている人間と、死ねないでいるだけの人間の、区別がつかないのである。

別に僕は、誰かに向かって、君は生きるべきだとか死ぬべきだとか言いたいわけじゃなく、
これは僕自身の悩みに対して、生きるべきか死ぬべきかと考えている僕に対して、
何か言おうとする過去の記憶、両親の言葉に、いま反論しているのである。

そういうわけで、僕のような人間にとっては時に、
生きているより死ぬほうがよほど前向きで、生きる意志を持っている、と言えるのである。
もちろん本当なら、可能なら、同じ前向きさで生きているほうがいいのだが、それがどうしてかできない場合、
死ぬことができるならそれもまた悪くないのである。

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うさぎの峠

うさぎが百匹くらい住んでいる峠がある。
誰かが数えたわけじゃない。いつ入っても峠を抜けるまでに何十匹も見かけるものだから、
たぶん百はいるだろう、という意味である。

うさぎはどれも白い。

ある旅人が、この峠に入った。
この地へ来るのは初めてであり、
この峠のことも知らない。

道が草に覆われて人の足跡が細く薄らいでいくころ、
一匹のうさぎが彼のもとへ駆け寄った。
彼はうさぎを抱き上げ、ペローと名前をつけた。

彼はうさぎを見たことがなかった。
白くてふわふわの毛、丸くくるまった体、
長くてちらちらと動く耳、今にも駆けだしそうな手足、
ペローは彼の腕の中で、眠るように息をしている。
このままどこまでも歩いていけそうな気がした。

しばらく歩いていると、抱えていたペローが、
飛び降りて、そばの茂みへ駆けて行った。
旅人は追って、茂みをかきわけた。
するとそこには二羽のうさぎがいた。
どちらがペローだったか? 彼にはわからなかった。
そこで別れを告げて、彼は一人で歩き出した。

それから深い森へ入り、岩場を歩き、
湿った空気を侵し、やがて森を抜け、
峠を抜け、彼は村に降りようとしていた。
道中、うさぎをたくさん見かけた。
何匹いたか、十五を超えたころに数えるのをやめた。
村の人に別れを告げるとき、ここには百のうさぎが住んでいると聞いたが、
あながち間違いでもないだろうと思った。

しかし彼がはっきりと思い出すことができるのは、
初めてペローを抱き上げた、あの瞬間のことだけである。

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