群青日記

人生で一番痛々しい時代にどうしてブログを書いているのか

一端

コミュニケーションのうち言語が占める割合は7%しかないと聞いた。
では自分の頭の中にうずまいているあれこれのうち、言語で説明できないものが93%あるってことなのか。それはちょっと違う気がする。

でもこれを口実にして、非論理的なものや言葉にならないものを少しは信じられるようになる気がする。

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感覚が死んでいって、ほとんどなにも楽しいと思わなくなっても、苦しみだけは消えてくれない。前より薄まった気はするけれど。

人生の価値をどう測ればいい。「いかに苦しまなかったか?」それなら今すぐスイスにいって安楽死すればいい気もする。でも今の自分の心中に一番近いのはこれだ。

「いかに楽しいことをしたか?」「喜びを苦しみで割った割合で計ればいい」「喜びから苦しみを引いた総量で計ればいい」、どれも微妙に見えて、わからない。そもそも測れないのではなかろうか。ではQOLという言葉は一体何のためにあるのだ。

周りのまともな人、尊敬できる人、好きな人や憧れる人を見るに、そんなことを気にしている様子はあんまりない。でも心中どうなのかわからない、自分は人から見て何を考えていると思われているんだろう。

人間は運命という川に流されるだけだとも言うが(どこで聞いたかは忘れた、自分で考えたかもしれない)、そう見えるのは人間を俯瞰したときだけで、生きている人間は自分の内側から世界を見ているもので、自分の意志が生活から抜け落ちることはないはずなのである。もし他人の意志だけを無視しようと試みるならそう長くは続かないはずで、少なくとも僕はそういう試みを憎む。

確かなのはあくまで自分が何を感じているかだけだ。何にとって確かか? 僕は何を探そうとしている。自分が何を考えているかを探しているのだ。普通わかるものだと思うけど、自分の意志にいろいろ手を入れすぎて、自然な感情というものを忘れてしまった。うそ、わかるはずなのだ。わからないふりをしようとしている。しかし「ふり」と言っても自分で制御できなければ、それに困っている自分には責任はないのではなかろうか。二重人格の人の気持ちってこうなんだろうか。

朝6時、ひどい文章を書いている気がする。何か一生間違いのない名言というか、人生の一大事として常に注意すべきことは何か、と考えていたけど、そういうものが存在すると考える心、これが誤りなのではなかろうか。自分の心は変化するもので、変化するものに対応するには常に更新し続けないといけない、そんなところじゃないか。

僕の心はどこへ行こうとしているのか、俯瞰すれば不幸を避け幸福に向かい、習慣に従い、何か説明できそうな気もするけど、主観に戻ってみれば、何かをしようとするエネルギーは常に制御不能で、やろうと思う前に気づいたら出来上がっている、そんなことがよくある。むしろ、やろうとしないものへ心を無理に引っ張っていったり、進もうとするのを抑えつけている間が、もっとも苦しい。でもこれは物心つく前からの癖であって、遅くとも高校1年のころから自覚してたはずのもので、未だに苦にしていて、いや悪化しているかもしれない、生涯治らないと言われても不思議じゃない。端的に言えば、やりたいことがわからない、できない、という話なのだけど。

では自分の心のうちこの部分だけでも救うことができればとりあえず十分と言えるのではないか。そう思うと小説を書くのが何か現実的なことのように思えてくるし、まだ途方もないもののような気もする。

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死にたい理由と生きる理由

死んだら悲しむ人がいるから自殺はするなとか、
生きてるだけで丸儲け、とか、そんな話を散々聞かされたけど、
自分は全然納得してなくて、
死ぬべきじゃないから生きるとか、死ぬよりは生きてるほうがマシだとか、そうじゃないでしょう?
それは死に損なっているだけだ、死ねないでいるだけだ。
死のうとする意志を何者かに禁じられているだけで、
その理屈が弾け飛べば今すぐにでも死のうという意志がある。

生きるとは何であるか?
生命的に、ホメオスタシスが機能していて云々、という話じゃなく、
精神的に、どうすれば人間的に生きていると言えるかという話である。
毎日寝起きして歩き回っていても、およそ人間とは思われぬ、死んだような者が確かにいて、
自分もそういう者になる日もあれば、まともに自分は生きていると感じられる日もある。
その境目はどこにあるか?

自分にとっては、自分の意志だろうと思う。
誰かの命令だとか義務感より、自分がぼんやりと持っている善悪や良し悪しの判断、
意欲とか痛みとか、そういうものが機能していなければ、生きているとは言えない、と思う。

何が言いたいかというと、死ぬな、と命令されて死にたいのに死ねないでいるよりは、
自分の意志で自殺を選ぶほうが、自分の意志が働いているのだから、人間的であり、生きていると言えると思う。
死にながら生きるより、生きた人間として死ぬのである。

これを聞いてすぐさま、死ぬほうが生きていると言えるなんておかしい、と思う人がいるだろうが、
代弁しよう、たぶん自分の意志で死ぬよりも、自分の意志で生きているほうが、生きていると言えるのである。
だから早々にその意思とやらを回復して生きろ、と言いたいんでしょう?
しかし他人の生死にそう容易に口を出す人間は、ほとんど人間の自由意思というものを認識していない。
自分の意志によって生きている人間と、死ねないでいるだけの人間の、区別がつかないのである。

別に僕は、誰かに向かって、君は生きるべきだとか死ぬべきだとか言いたいわけじゃなく、
これは僕自身の悩みに対して、生きるべきか死ぬべきかと考えている僕に対して、
何か言おうとする過去の記憶、両親の言葉に、いま反論しているのである。

そういうわけで、僕のような人間にとっては時に、
生きているより死ぬほうがよほど前向きで、生きる意志を持っている、と言えるのである。
もちろん本当なら、可能なら、同じ前向きさで生きているほうがいいのだが、それがどうしてかできない場合、
死ぬことができるならそれもまた悪くないのである。

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うさぎの峠

うさぎが百匹くらい住んでいる峠がある。
誰かが数えたわけじゃない。いつ入っても峠を抜けるまでに何十匹も見かけるものだから、
たぶん百はいるだろう、という意味である。

うさぎはどれも白い。

ある旅人が、この峠に入った。
この地へ来るのは初めてであり、
この峠のことも知らない。

道が草に覆われて人の足跡が細く薄らいでいくころ、
一匹のうさぎが彼のもとへ駆け寄った。
彼はうさぎを抱き上げ、ペローと名前をつけた。

彼はうさぎを見たことがなかった。
白くてふわふわの毛、丸くくるまった体、
長くてちらちらと動く耳、今にも駆けだしそうな手足、
ペローは彼の腕の中で、眠るように息をしている。
このままどこまでも歩いていけそうな気がした。

しばらく歩いていると、抱えていたペローが、
飛び降りて、そばの茂みへ駆けて行った。
旅人は追って、茂みをかきわけた。
するとそこには二羽のうさぎがいた。
どちらがペローだったか? 彼にはわからなかった。
そこで別れを告げて、彼は一人で歩き出した。

それから深い森へ入り、岩場を歩き、
湿った空気を侵し、やがて森を抜け、
峠を抜け、彼は村に降りようとしていた。
道中、うさぎをたくさん見かけた。
何匹いたか、十五を超えたころに数えるのをやめた。
村の人に別れを告げるとき、ここには百のうさぎが住んでいると聞いたが、
あながち間違いでもないだろうと思った。

しかし彼がはっきりと思い出すことができるのは、
初めてペローを抱き上げた、あの瞬間のことだけである。

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不眠症

眠れない。いつものことだけど。
キーボードを叩き始めると眠くなるのが不思議だ。
電気を消して布団に潜ると、不思議と目が冴えてきて、
……というよりは、なんだろう。目が冴えるというのは違うかもしれない。
気分が悪くなって、眩暈がして、体の節々が痛み始めて、
気が付いたら呼吸の仕方を忘れている。
それでもしばらく耐えてみて、あまりの息苦しさに気が狂いそうになったころ、
やはり眠れない、と諦めて起きてくる。
水を飲んだりしてみて、落ち着いたら、また眠ろうとする。
やはり眠れなくて、しばらくしたら起きてくる。
そんなことを何回か繰り返していると、そのうち眠れる。
こんなのをもう何年も続けているのだ。
ここまでひどいのは最近になってだけど。

不眠といえば、寝付けないのに加えて起きられないとか早く起きてしまうというのもある。
夜中、誰かの叫び声が聞こえて、ウッと目を覚ましてみれば、自分の声だった、なんて。
うなされていたのだ。
目覚めはいつも気分が悪い。すっきり目覚める朝は一年で一日あるかわからない。
特に寝覚めが悪いのは昼寝のあとで、いつも吐き気がする。
いま気付いたのだが布団が悪いのかもしれない。もう何年も同じものなので、消耗して真ん中がへこんでいる。
これの寝心地が悪いせいなら、布団を替えれば済む話なのだが。
そういえば旅行に行った先ではだいたいうまく眠れている。
それがふかふかのベッドのおかげなのか、歩き疲れたおかげなのかはわからない。

前に書いた文章はひどく支離滅裂だった気がするけど、
今日のは落ち着いている。
手が痛くなってきたので今日はこのあたりで。
眠れるといいけれど。

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宗教

人が宗教に熱中する姿を我々は白い目で見るが、
……我々と書くのはつまり俺とおおむね同じ気分の人がいるだというと思って書くのだが、
あれのどこがどう間違っているのか。

信じることが間違っているのじゃなく、宗教以外のいろんなものを疑っているのが危うい。

宗教を否定して奪おうとする人はよくいるが、
仮に成功しても、彼が改心して自分の目で世界を見るようになるとは限らない。
おっと、自分の目とは? 我々は生まれてこの方無数の人間に影響を受けているから、
はっきり自分だけの感覚、自分のみに由来する感情や思想というものはごくわずかである。
それは誰にとっても同じであり、ほとんどは人から見聞きしたものであり、各々の新たな考えというのは確かにわずかだけある。
しかし聞いたもののうち何を覚えておき何を忘れ、何を良しとし悪とするかの判断がある。
なので、確かに我々の思想はほとんど人からもらったものだが、
我々が見聞きし体験した情報そのものではないのである。その取捨選択には確かに価値がある。

何の話だったか。
見聞きした者の取捨選択と、それから個人で体験、このふたつが思想の正体である。
これは人間本来の機能であって、生来誰にでも備わっている。
生来、と書いたのは、後天的に失ったり衰えたりすることがあるからである。
自分でものを考えろ、と言うのは、たぶんこういうことであり、
自分が正しいと思う意見自体は、誰かの真似かもしれないが、それを選び抜いたのは自分なのである。
その選択に価値があるのだと思う。

人が考えられるものの量は体力やら何かに制限されて有限であるから、
各々分担するのである。全員で広くやるより各々特化した方が効率がいいらしい。
自分の分野でないことは、専門の者の結論をもらってくる。料理ならクックパッドを見るとかである。
いま不思議に思うのは、例えば一人の天才がふいにすごい機械の仕組みを思いつけば、
瞬く間にメディアがニュースを書き、同業者が集まって研究し、工場は動きトラックは走り、
時間と資源さえあれば一人の発明が全人類の家に届くのである。すごい。

ところで自分の分野に関しては、ある程度は先人の結論をもらってくるものだが、
新しいものを考えたり実行したぶんだけが功績であろう。
人の真似をするな、と言われるのはたぶんこういうことである。


話が逸れすぎてすごい、理論整然と話ができる人の頭はどうなってるんだ。
自分がおかしいのかしら。

それで、何だったか、
宗教に熱中する人間がなぜ非難されるか、俺はなぜそういう人を見て妙な気分になるかというと、
(妙な気分というのは批判したいけど責められるほどのものでもない気がする、という感じ)
彼の善悪判断や目耳が働いていないように見えるからである。
ところでどうして人は宗教を信じるのか、宗教とは何であるか?
あれは人に支配されてきた人が、支配者を失ったときに作り出すものではと思ったことがある。
それとも単に人を支配するためのものだろうか?
純粋な宗教とは、己で己を支配するために己で作り出すもので、ひょっとしたらユダヤ教はそれに近いのではと思ったけれど、よく知らない。

人間のことはよくわからない、自分だってもともと何かを信じたくていろんな本を読んでいたが、
いまは、特に誰のことも信じていない、フラットな人間不信でいるつもり、でいる。

宗教に熱中する人間をどうすれば救えるか、どうなれば救えたと言えるか?
宗教以外のものも信じるように、少なくともあまり疑わないようになればいいのだと思う。
宗教以外のもの、……モノというより人だろうか。結局人を信じられないのだ。
では我々は何をすべきか?
いろんなところで、立ち直っていく人を見たことがある。間近にじゃないけど。
だから自然になんとかなるんじゃないかなと思いました。
こう、「何をすべきか?」と言うと、急に支配的な、強いられる感じがするが、
人間不信の正体の一端がその他人を支配しようとするものなので、
これは答えのない問いであり、もしくは「何をすべきだとも言うことができない」ということになる。

僕が生活に困っているのも同じような理由で、同じような答えになると思う。
つまり「自分は何をすべきか?」と考えているが、
何をすべきだとも言えないのだ。
いまの僕は主体性を失っている。何がしたいとも思わないし、できれば目が覚めたら死んでいてほしいと思っている。
どうしてか幸福を求めることを禁じられているようである。誰に? いつ? その犯人はもっと重いものに苦しんでいる。
今まで自分を殺す努力ばかりしてきた気がするが、今度は正反対に進もうと言うのである。

なんだか危うい気もする。このまま義務感に自分を殺す生き方もあるような気がしてきた。

わからない。
自分は何がしたいか? 寂しい、もう少し人を信じられるようになりたい。

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