群青日記

人生で一番痛々しい時代にどうしてブログを書いているのか

珍しく最近の本を読む人

しおりを挟んで、本を閉じた。気づいたら残り3割くらい、ほとんど読み終えてしまっている。そんなつもりはなかったのに。読み始めたころは、なんだか癖のある文章だというか、細かい粗が気になったけど、いちゃもんをつけようとする心を抑えさえすれば読むのは容易くて、まだ話の導入かな、と思っていたらそのままこのページ数まで進んでしまった。
さて時間を忘れるように読めたと言えば、つまり面白かったとも聞こえるが、実際この本は面白いんだろうか。自分はこの本を楽しんで読んでいるだろうか。心の内にあるこの感情は、これは「楽しい」と呼ぶものであろうか。わからない。
まるで水を飲むように読める本、別に美味しいわけでもまずくもなく、ただ喉が渇いていて飲めるから飲む、そんな文章だった。自分が普段から読んでいる本は、もっと古くて、文体も厳めしくて、言い回しは古語のようだったり、抽象的な話ばかりだったり、水のように飲むにはあまりに喉につっかえる。やっとの思いで少しずつ飲み下していく文章のようだ。これは僕が後の時代の人間だからなんだろうか。昔の人にはすらすら読めて、現代の小説のほうが読みにくいんだろうか。どうなのだろう。

もうひとつ思い出した、文学とは病める精神のための薬なのである。飲むには苦く、副作用もあるが、効くには効くもので、健康な人間が飲むものではない。自分はなんとなく昔の人より今の人のほうが病んでいないだろうと考えていて(根拠はというと時代が進んだんだから良くなってるはずだろうってだけでほんとは現代人のほうが病んでるかもしれない)、ともかく自分が病んでいると自覚している人なら少しの苦労を負って文学を読む価値もあるだろうと思うのである。

正直最近ほとんど本を読んでいない。興味も気力もなくなってしまった。
眠い、目がしばしばする。まとまったことは何も考えられない。
僕はいつからこうなってしまったんだろう? 最初からこうだったのだ、時に合わせてその場その場で誤魔化してきただけだ。
本心を言えば僕にはやりたいことなんて何もないのだ。
やらなければならないように感じてることなら無限にある。



人生には浮き沈みがあるものだとはもう二千年前から言われている。
でも実感するのは難しい。それにどうしたらいいのかもわからない。
沈んでいても浮いていきたいと願うのが人間というものだろうか、
それとも浮いていようが沈んでいようが時の運なのだと落ち着いているべきものなんだろうか。
浮いているときにいずれ沈むことを考えて憂鬱になるときもあり、
「問題を認識したとき、それはほとんど解決しているのだ」と言う通り、
知識と判断はそんなに離れたものではないのだ、ひとつひとつ細かい判断を積み重ねれば全体は勝手にできているのだ、
先に全体を決めてから細部の辻褄を合わせていくものでは、組み替えるときに全体を1から組み替える必要がある。
パーツが綺麗にできていれば、組み替えるのも容易いのである。
そういう意味で結論を急いではいけない。
あくまでパーツを正確に作っていくべきなのである。
息長く歩いていくというのはそういうことじゃなかろうか。
要するに慎重に考えるということである。
眠い、支離滅裂だ。
人と何かを話してまともに通じあっているという実感があんまりない。
自分はいつも、話が通じているふりをしているだけだ。
そもそも誰かが真剣に話を聞いてくれるっていうことが信じられないのだ。
その真摯さに耐えられなくて、離れてしまう。
僕はあなたが僕を信じてくれるほどには、あなたを信じることができない。

PageTop

ゲームと攻略記事

(スプラトゥーンの話をするのでたぶんやってない人にはわかんないと思います)

最近いろんなゲームの攻略記事を読むのだけど、
たとえばスプラトゥーンでどのブキはどう戦うのが良いとか、
シャドウバースでどのカードが強いとかどうとか
なんかこう的外れな意見がけっこうあって、何ならトッププレイヤーの意見でもたまに大外れすることがあり

これはゲーテ格言集で読んだ言葉なのだけど、……こういうときは正確に引用したほうが良い気がして本を開いてみる。
これだ、「自然研究の歴史を見て終始気づくことは、観察者が現象からあまりに早く理論に急ぐため、不完全になり仮説的になるということである。」

実例を出そうと思ったけどうまくいかない。
自分自身そういう経験があって、なんていうか、書きにくいのだけど、
小さい事実を正しいと確信するのは結構簡単なのだ。
それを組み合わせてもっと大きい事実を決めるのは難しい。
その大きい事実を重ねあわせてやっと一試合の動きが決まるのである。
スプラトゥーンの話をする。今も悩んでることだけど。
デュアルスイーパーについて。
デュアルスイーパーはプライムシューターよりも塗る力が強い。瞬間的にもそうだし、持続力もある。これは間違いない。
プライムシューターはデュアルスイーパーよりも相手を倒す速度が速い。これは間違いない。
お互いの有効射程は等しい。塗り射程もだいたい同じである。ただし塗り射程は有効射程より1.2倍くらい長い。これも事実である。
ここからが難しい、「デュアルとプライムが撃ちあったらどちらが有利なのか?」これを決めたい。
さっきよりちょっとだけ話を大きくすると、お互い有効射程内で撃ちあったらプライムシューターが有利である。倒す速度が速いから。いや、どうだろう? 「お互い足を止めて」「同時に撃ち始めたら」と仮定すれば間違いない。
お互い有効射程内で撃ちあったらプライムが有利である、なので「デュアルはプライムとの対面を避けるべきである」、と、ここでこう決めて書く人をけっこう見るのである。話が長くなった。
何ならここから飛躍して「デュアルはプライムとの対面を避けるべきなので、プライムと対面しにくい位置取りをすべきである」とか「プライムが環境に多い今はガチマッチにデュアルスイーパーを持ち込むべきではない」とか書く人もいる。
ただそれが正しいかどうかは微妙なところで、そもそもデュアルスイーパーとプレイムシューターが撃ちあってどちらが有利か、それさえ定かじゃないのである。今自分が確信してるのはそれより上の行、お互いの塗り性能差とかキル速度の差くらいまでで、例えばデュアルがスライドを絡めればどうか、足場が十分にあればどうか、味方の援護があればどうか、有効射程内に入らないよう塗り射程で撃ちあえばどうなるか、などなど、考慮するところはいくらでもあるのである。
なので、デュアルはどう動くべきか、なんて大雑把な話はそれまでの仮定が変われば変わるだけコロコロ変わって、プライムとの対面もやるべきだったりやらないべきだったりするので、確信を持って書けるのはその前の段階、お互いの性能差とか、同時に撃ちあったらデュアルが死ぬとかそういう単純な話、そっちなら全然書いて読む意味があって確かなものだと思うのである。

これ誰が読むんだ。

PageTop

眠気

朝6時、外を歩きながら、ぼんやり考えていた。
「自分には人間としての土台が欠けている」
「常に信じていられるようなもの、迷ったらそこへ帰ってこれるような基礎的な思想、信頼しているもの、自我の土台がない」

折り返し、いま歩いてきた道を引き返しながらこうも考える。
昨夜見た「体調が悪いのを医者に診てもらったら呼吸が浅いせいだった」という人の話を思い出し、
安易に真似て、なるべく深く息をしながら。
「全ての思想の基礎は、個人の幸福ではなかろうか」
「まず自分一個人が幸福であること、それが第一であって、他人への思いやりとか云々はあくまで二の次、派生したものであって、自分の幸福がなければ他人の幸福も想像することができない」
「つまり万事を判断する基準は『自分は幸福であるか?』その一事が基本なのではなかろうか」

僕がこの考えに至るのは一体何日ぶり何回目か、
何年も前から頭にあって、思い出すたび僕を納得させるのだが、完全に腑に落ちるわけじゃない、
微妙なんだ。ある程度は正しいけどそんなに的を射ているわけじゃない。

またぼんやり歩きながら、こう考えもした。
「恋というのは幸福であろうか」
僕は恋というものを漠然と思い浮かべ、まずこれが人生に存在すべきものか、存在すべからざるものかと考えた。ほとんど迷わないうちに、恋は普通人生に在って然るべきであろうと思った。
「恋には幸福な瞬間もあれば、死にたいくらい苦しい時間もあって、いや、むしろ苦しい時間の方が長いくらいで、つまり恋をするとしない人より幸福も苦しみも両方多く感じることになるのだ」
と思い至った。つまり人生には幸福もあれば不幸もあって然るべきなのだと思った。この言い回しは今まで何度も聞いたからそんなに間違ってないだろう。間違ってるとすればこんな単純なことを真理として書きださなきゃ済まない僕の精神が間違っているのであり、つまりこの一連の思考と結論は誰かにとっては必要なくて読むのも嫌かもしれない、そうだろうと思うしそれで正しいと思うが、かといって既にこんな簡単なことまで疑い考えるようになってしまった僕にとっては、今の僕にとっては必要な思考なのである。たとえば公園で腕に注射を打つ人を見かけたとする、君はそんなもの見なかったことにしようと思うかもしれないが、彼が糖尿病の患者であり治療の一環に定期的にインスリンを打たねばならないと知ればそんなに怖がらなくなるだろうと思う。
僕は何の話をしているんだ?

PageTop

「レストランにて」

レストランにて


「ちょっと、フランス人はそんなことしないよ」
と、彼女にたしなめられた。
「ほんはほほっへ?」
「ああもう、一度飲み込んで」
一層怪訝な顔をした。さすがにもぐもぐしながら喋るのは行儀が悪いかと思ったが、彼女が怒っていたからすぐに返事をしようと思ったのだ。
「なに?」
と聞きながら、つい口の周りをぺろりと舐めてしまう。我ながら子供みたいだ。彼女は、はあ、とため息をついてから、話し始めた。
「あのね、目玉焼きを丸ごと頰張るなんて、おかしいと思わないの?」
「そうかい?」
「ええ。おかしいわ。みっともないでしょ」
「じゃあどうやって食べるって言うんだい?」
「あのね、見てて。こうするの」
と、彼女は自分の皿の上の目玉焼きをナイフとフォークで切り始めた。その手つきは音一つ立てず、まるで生まれながらの中世フランス貴族のよう、このおしゃれなレストランの雰囲気にも馴染んでいて、彼氏としては妙に誇らしい気分になる。服も今日のために用意したのだろうか、本当に綺麗で、自分の知っている彼女じゃないみたいだ。いや、そもそも彼女はいつだって素敵だった、街中を歩いていても、映画館の暗い静寂の中でも、二人きりの夕日の赤の中にいても、彼女はいつもこの世のものではないような、一人だけ神様から遣わされた動く「美」そのもののよう、何と言っていいか、つまりいま僕の胸の中にある浮き足立ったこの気持ちは、いつだって彼女に呼び起こされてきたもので、「ねえ」こうして目が合えば瞳に吸い込まれてしまう、声は反響していつまでも消えない、「ねえ、聞いてる?」「ああ、聞いてるよ」
聞いてなかった。皿の上に目を移すと、目玉焼きの白身の部分だけがまるでお好み焼きのように一口ずつ切り分けられ(高級フレンチに似つかわしくない例えなのは僕の育ちのせいだから許してくれ)、そのうちひとつはさらに半分に折りたたまれてフォークに刺さっていた。
「いい?細かく切り分けてね、こう」
と言いながら彼女はナイフで目玉焼きの黄身に切れ目を入れた。浅い切れ目、半熟の身がそこからとろりと溢れ出しそうだ。これだから目玉焼きは半分に切ったりできない、自然と、一口で丸ごと、少なくとも黄身はバクリと頰張る他ない。と思うのだ。
「こう、つけて食べるの。チーズフォンデュみたいに」
彼女はフォークに持った白身を、いま切れ目を入れたところから黄身に浸して、その口に頬張った。かわいい。どうして好きな人が食事するところを見るのはこうも魅力的で、ともすれば官能的で、背徳感さえ感じる。彼女は気づいていない、ただ得意げで満足げに僕の目を見ている。かわいい。耐えがたい。
「ね?」
と、ぱくぱく食べ進んでいく。確かにこれなら綺麗に食べられる。
「フランス人は、子供の頃からみんなこうするんだって」
「へえ」
たぶんテレビで聞いたんだろう。フランス人に怒られたくないので僕は鵜呑みにはしない。しかしだな、仮にそうだとしても、なんとなく丸ごと頬張ったほうが美味しい気がするのだ。綺麗じゃないけどさ。
「あのさ、フランス人は目玉焼きを頬張って食べる喜びを一生知らないってこと?」
「え?なに?」
つい言ってしまった。
「確かにさ、切り分けたほうが綺麗だけど、こう一口でガッて食べたほうが、なんていうか」
「うん」
「こう、『食べてる』って感じする」
「え?ふふ」
「『うおお、もぐもぐ、俺はいま目玉焼きを食っているぞ!』みたいなさ」
「あはは」
笑ってくれた。楽しい。僕が突然変な話をしても、のんびり聞いてくれる。すごい。なんていい彼女なんだ。僕はもう今日死んでも悔いはない。こんな気持ちになるの、彼女と付き合ってからほとんど毎日な気がするけど。今でたぶん2年に足らないくらいだから、700回は死んでそうだな。何の計算だ。
「でも、そういうのは家だけにしてね。ここには似合わないわ」
また怒られてしまった。かわいいから全然怖くない。

「デザート、何にしようか」
「パフェ食べたいな」
「えー?似合わない。ほんとに?」
「ほんと。昔から好きで」
「普通女の子が好きなものでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「あ、コーヒーゼリーあるんだ。私これにする」
「えー?似合わない」
「え、ほんとに?私ずっと好きなんだけど」
「コーヒーゼリーって普通男が食べるものじゃない?」
「えー。まあ、いいの。ふふ」

デザートが運ばれて、二人の声はだんだん低くなった。星が瞬くような、静かで、遠く、確かに輝いているような声。気づけば外は暗くなり始めて、紺色の闇と街明かりは夜空のごとく、冷たい空気を吸い込んでいる。
わずかな眠気が浮き足立った胸中を包んで、半ば夢の中、ふたりは手をつないで店を後にした。どこへ行くのかは、誰にも知られない。

PageTop

壊れた人形

「スパンを遠くに設定するほうがよい」という格言が頭にずっとこびりついている。誰の言葉というわけでもなく、何か根拠があるわけでもなく、自分がなんとなしに考えていて確信しつつあることなので、ある意味誰の保障より自分にとって確かな言葉である。

もう少しわかりやすい言葉で言いたい、でもこういう頭の中の概念って別に書くべきものでもなければ書けるものでもないのだ。読んだところで誤解されやすいし、役立てるかもわからない。

(後から見返してあまりに支離滅裂なので何か書き足すことにした。自分の行動の評価軸を「どの時点」に設定するかである。たとえば高校二年生の勉強なら、たとえば明日の課題提出か、来週の試験か、来年の受験か、十何年後の研究か。どこを目標にするかという話であって、今の例で言えば遠くに設定したほうが良さそうに見えるが、ではそれに際限はないのかという話をしたい。どこかに際限はある気がするのに、しかしない気もするのだ。きっと本当は際限はあるのだ、ない気がするほうが誤りで、自分はそれによって現状に陥っているのではなかろうか。ただの推測だけど。下の数行で似たような話をしているが許してくれ)

だいたいの過りはスパンを短く設定しすぎるせいなのじゃないかと思った。なるべく長く設定したほうがいい。際限はないのか? ものごとの基準において際限がないなんてことはなかなかない。でも際限がないように思われるので、ずっと不思議だったのだ。相反する二つの直感が同時にあって、ふわふわと浮いている。別にどちらかを今すぐ誤りだと決めつけようともしない、このあたりが自分のいいところなのかもしれない。

つまりだな、一体どれだけ遠くを見て生きていればよいか。遠すぎるということはないかどうか。今思いついた、身近なものが十分見える程度に遠くを見ればよいのではないか。何を参考に思いついたか言うと、スプラトゥーンでいつマップを見るかとか敵陣を見渡してみるかという話である。まさか打ち合いの最中にマップは開けない。しかし目の前に脅威がなければ、一息ぶんの時間を費やしてでも、適切な行動を選ぶためにマップを見る価値が十分にある。

さてスプラトゥーンにおける打ち合いは人生において何であろうか。脅威とは何で、それがどれだけ遠ければ全体ぼんやり見渡すことができ、どれだけ時間をかけてよいか。

ただまあ人生は4vs4じゃあないし5分で終わるものでもなし、塗りポイントを競うものでもないので、あれだ。過学習というやつだ、ゲームだけをモデルに考えるのはいけない。

何の話をしていたか。もう少し人を見ようと思った。本とか、動画とか、話してみるとか。映画とか。会って一緒に過ごしてみるのが一番早いけれど、それが怖いのだ。こう見ると自分の人生はかなり根本的なところで破綻していて、小手先の、大学の資金がどうとか小説家になる夢がどうとか運動不足がどうとかいうレベルじゃあないんだと思う。

あと文章について。最近、上手いとか下手とかいうものではない気がしてきた。技術じゃあなく精神なのでは、というような。と言っても技術が存在しないわけじゃない、土台にまず精神があるべきものなのではと。書きながら自分でもよくわかってない。何というか、自分が幼少期に読めもしない本をぼんやり眺め、それが断片的に記憶に残って今も思い出せるように、そういうふうに役に立つのが本当の文章なのではと思った。



早朝5時。自分には夜の続きだけど。

気分が良い。

ボールペン字講座のお手本の薄い文字のように、なぞるだけで綺麗に出来上がるような、そんなお手本になる人を知りたい。自分の成功は思い返すと全部そんなもので、誰かの真似をして、真似だと知らない人に褒めてもらう、そんなものなのだ。オリジナリティだとか独自性というのはどこにあるか。ああいう批判は要は下手な模倣をやめろという意味で、「我々から見てあたかも独自性やオリジナリティがあるようにせよ」という意味で、内面的な言葉じゃない。誠実な創作者が自分の作品の独自性を誇るところを僕は見たことがない、むしろ世間の誤解を解くために、これは誰のどれから模倣し、これはあの人のあれを見て持ってきたもので、と説明するのを見たことが何度もある。

では専門でない者の意見は聞いてはならないのかどうか。それでは受け手から感想がもらえない。つまりこうだ、自分が好きな人、尊敬する人の意見だけを聞いていればいい。では自分にとって好きとは何か、尊敬するというのはどういう感情か。それはもう知らない、神聖な領域であって、自分の心のうちを慎重に聞いてみるしかない。自分はこれがわからない。何が好きで何が嫌いかわからないのだ。こんな精神の奥深くにもメスを入れてしまって、未だに手癖で漁り回っている。

何の話をしていたっけ。話がころころ変わるのは何か精神病のひとつの症状だと読んだ気がする。では自分は病気か。間違いない。



最近ろくに本を読んでいないので文章に妙な癖がついてきた。何か読もう。読むと自分の内側がかき乱される感触がして読みたくないのだ。人に会ってもそんな気分になる。

ゲームをしていてもそうだ、自分はある「正しい理論」を忠実に実行することだけを考えていて、自分の幸福とか苦しみとか、身体的な感覚がすっぽり抜け落ちている。ふいにそれを思い出して遊び始めると同じゲームが急に活き活きとして、自分の心臓の鼓動や空気感まで伝わってくる気がする。こういう感覚はむしろゲームが下手な人ほど強く持っている気がする。

人生においても、もし自分が自分の幸福とか不幸とかをまともに考えて尊重しているなら、今だってなにかバイトなり始めているはずだろうし、誰かと連絡をとって会ったりしている気がする、どうにか大学へ行く手段を考えていそうな気もする。

でも振り返ってみると、そうしないのは別に何か道徳的な理由があるわけじゃなく、ほんとにただ面倒だからとか、なんとなく嫌だからとか、そういう気分からなのは間違いない。

眠い、頭がこんがらがってきた。自分には幸福や不幸といった機能が存在しないわけじゃなく、消滅したわけでも機能を停止したわけでもなく、動いているがいわばバグっているのである。壊れているのだ。

ただ周りを見渡してよくよく考えると、自分が特別壊れているわけでもない、壊れていながらもけっこう動いてまともに生きている人がいるようで、不思議だ。

PageTop

一端

コミュニケーションのうち言語が占める割合は7%しかないと聞いた。
では自分の頭の中にうずまいているあれこれのうち、言語で説明できないものが93%あるってことなのか。それはちょっと違う気がする。

でもこれを口実にして、非論理的なものや言葉にならないものを少しは信じられるようになる気がする。

PageTop